未だ蝉が鳴く中、蜻蛉が飛び始める残炎の折の出来事だった。
 僕は彼を好いていた。
 しかし彼は僕を嫌っていた。

「確かに悪い事はしたと思ってます」
「……なんの事」
 突っ慳貪な態度が気に入らなくて、僕は嫌みったらしく、分かっている癖に、と笑みを浮かべた。
 足を組み替えると、革張りのソファと擦れて歪な音が鳴る。僕と恭弥の言葉のキャッチボールはゆっくりで、歪な音は妙に響いた。この場に流れる空気に、全くと言っていいほど似つかわしくない音だ。僕に一瞥をくれた恭弥からも、空気を読めと、そうオーラを発せられている気がした。
「それが、なに。今更」
「僕が君に一方的な暴行を加えた事」
 いや、やっぱりあの一瞥は、違う意図が込められていたのかもしれない。
 もう一度強調すると、恭弥は眉間に寄せていた皺を、更に濃くした。怒っている。彼の吊り目が際立つ瞬間の、一つだ。
 恭弥は特別席にいた。彼しか座れない、デスクワーク用の席。風紀委員長と書かれた卓上の顕著な札が、それを表していた。

 この部屋は応接室と言うらしいが、既に風紀委員長の縄張りと化している。一つしかない出入りの扉から見て、中央に接客用の机、それを挟んで向かい合う二つのソファ、そして中央に並ぶそれらを見張るように設置された、特別席。特別席の椅子はソファと同様に革張りで、回転式だった。机の上にはいつも何かしらの書類が乗っていたが、常に整理整頓されていた。
 今日も恭弥は特別席へ座り、デスクワークに専念している。それを僕は、邪魔をしているのだ。
「君の所為で、気が散る」
「それは良かった」
 立ち上がった恭弥は、徐に室内を歩き始め、やがて棚に手をかけた。引き出しの中を何やら乱雑に物色している。それを見ていると、恭弥は引き出しの中から白いワイシャツを引っ張り出した。今、恭弥が着ている物と全く同じ物に見える。だが、鏡の前で身の丈を合わせている恭弥を見て、引っ張り出したのは半袖なのだと気付いた。

 いきなり、恭弥は服を脱ぎだした。
「ちょっと」
「何、なんか文句あるの」
「客の前で着替えるのは、言語道断です」
 鏡越しに見える、目に余るほどの白い肌から目を逸らす。
 そこから無駄な言い争いが始まった。
「君を客だと思った事は一度もないな」
「屁理屈ですね」
「一応、屁は付くけど理屈だよ」
 もう見ていないから定かではないが、多分恭弥は、悠然とした態度で着替えているのだろう。布擦れの音がした。恭弥が着ていたワイシャツを投げ捨てた音か。
 言い争いは未だ続く。
「バカ恭弥」
「脈絡のない暴言、やめたら。それしか知らない餓鬼みたい」
「バカの使い方、わかりません」
「イタリアから出直してきなよ」
「とにかく、やめて下さい」
「嫌なら見なければいいだろ」
 そこで静寂が、割り込んできた。僕が静寂に、隙を与えてしまったのだ。言おうか言わないでおくか、一瞬迷ったから。
 変わった流れを元に戻すのは難しい。先ほどまでの流れで、自然と言ってしまえば良かったものを。心の内で自分自信を叱咤した。

「僕は君が、好きなんです」

 せり上がった言葉をそのままに吐き出すと、沈黙が走る。言ってしまえばすっきりしたが、それは自分の気持ちだけで、余計に事はややこしくなった。間接的にも、直接的にも、彼にこのような事を明言したのは初めてだったから。
 彼を困惑させるような事を言い、鬱憤を晴らした事に多少なり申し訳なくなった。気付けば僕は、ごめんなさい、と謝罪の言葉を口にしていた。
 蜻蛉が、窓から入ってきた。
「関係ないよ」
「なにが、ですか」
「僕が着替える事と、君が僕に好意を持っている事は、関係ないよ」
 一瞬、恭弥を見やると、まだ着替えの途中だった。半袖のワイシャツを羽織り、ボタンを閉めている途中だった。
 恭弥が此方を振り向かずに、帰れ、と言ったので僕は帰る事にした。蜻蛉はまだ、部屋中を飛び回っていた。

 次の日も僕の足は彼のいる応接室へ向かっていた。
 扉を開けると、一瞬そこに彼の姿はないように思えた。中央にある、元は客をもてなす為の机に、沢山の品物が所狭しと置かれている。それに一度目を取られてから室内に足を踏み入れた。見渡すまでもなく、彼はいた。頭を出入り口の扉側に向け、珍しくソファに寝そべっていたのだ。
「風邪、ひいた」
 恭弥は仰向けに寝ていて、ソファ一つ分占領している。少々強引に彼の膝を立て、空いたスペースへ座った。
 移るよ。などと彼は警告したが、僕は聞かなかった事にした。彼から病原菌を貰えるなんて、多分本望だ。
「具合はいかがですか」
「最悪」
「それは大変ですね」
 机の上に並んでいる物に、順に目を通していく。冷却シート、タオルケット、市販の薬、体温計、大部分を占めていたのはスポーツドリンクとレトルトのお粥だ。
 購入した際のレシートとお釣りであろう小銭も、机の隅に置かれていた。長い長いレシートだ。
「何か欲しい物は?」
 大半の物は揃っているようですが。
 そう付け加えると、恭弥は呟いた。どれが必要なのかすら、分からなくて。
 その発言からして、自分で買いに行ったのだろう。こういう時こそ、部下に任せればいいのに。

 タオル地の掛け布団を彼にそっと掛けてやる。冷却シートを額に貼った彼の姿は、そうそう見れる物じゃない。恭弥の顔の横に手を付くと、恭弥は少し身じろぎした。彼の顔を上から覗き込み、前髪をかきあげる。赤い頬に荒い息、目は微かに潤み、絶え間なく汗が伝わっていく。
 夏も終わりに近付いていると言うのに、どうやら夏風邪のようだ。
 赤い頬に指の腹で触れる。そこは、瞬時に熱いと感じられるほど熱を帯びていた。
 熱の度合いを聞くと、恭弥はさんじゅうきゅう、とたどたどしく答えた。それから僕の手を掴み、手のひらを頬に押し当てている。冷たくて気持ちがいいのか、はたまた別の意味か。
 その状態のまま、僕は恭弥に話しかけ続けた。面白くも何ともない話題を、ただ一方的に話しかけた。恭弥はやめろ、や、うるさい、などと言った、いつもは必ず口にするはずの言葉を、今日に限って言わなかった。黙って、時折相槌を打って、聞いてくれた。
 話しかけている間、昨日と同じく、また蜻蛉が入ってきた。全開にした窓の、揺れるカーテンの隙間から、いつの間やら。僕らはそれを気にも止めなかった。

「氷買ってきます」
 話しかけ続け、何分経っただろう。
 そう言って僕は彼の手をすり抜け、立ち上がった。それは彼が苦しげに呼吸をする様を見て、何か出来る事はないかと考えた末の行動だった。
 彼は頷きもせず、呆然と僕を見ている。
「どうしたんですか」
 峻厳な眼差しが、心なしか穏和な物になっていた。
「……引き留めたくなった、だけ」
 罰が悪そうに目を逸らすが、僕を引き留めている手は、そのままだ。
 掴まれた手首。掴んでいる手。その真意も意図も分からない。引き留めたくなった理由も、分からない。でも推測は出来る。その真意は、きっと今の彼自身にも分からないだろう。だから僕が、気付かせてあげるに過ぎないのだ。
「仮に、ですが。君が本当は僕を好いていたとしましょう」
 畏まった説明口調をすると、恭弥はまた僕に視線を戻した。
「風邪を引いた時は、人肌恋しくなるものです。辛い時、誰かに救いの手を求めたがる……それも、一番好いている人に。それと似たようなものでしょう。君は風邪を引いていて、人肌恋しい状態。そして好いている人物が今まさに離れて行こうとしている」
 恭弥の顔が先程より赤くなっている事は明白だった。
 二回咳払いをし、結論を告げる。

「……これって、引き留めたくなる理由になりませんか?」

 恭弥は怒ったような、図星のような、恥ずかしがっているような、何とも言い難い顔で僕の手首を掴んでいた。
 それから関係無い、と呟くと、滑稽な程に、ただ否定し始めた。ここまで分かりやすい人も、珍しい。
「関係無い、関係無いんだ。そもそも君と僕が関係無いし、全部無関係なんだよ」
「それは間違ってますよ」
 僕が君に触れた時点で、もう無関係とは言わせません。
 先程と同じ、恭弥を組み敷く体勢で、彼の目をまじまじと見た。恭弥は怯えた目をしていたが、やがて決心したように僕の首に手を回した。
 風が吹き、カーテンが舞い上がると、蜻蛉が外へ出て行った。
 恭弥の体は、どこもかしこも熱かった。

end.

誤字を一つ発見したので直しました。お恥ずかしい。
改めて読むと、なんか気持ち悪い文体だと思います……。