この世界で一番の謎を、人々は疑わなかった。何しろ謎は謎ではなかった。最早、そこにあって当たり前と化していたのだ。
 それも仕方のない事だ。
 何せこれは「掟」なのだから。

 昔、絵本で見た事がある。
 それは当時子供だった僕の手の平に収まるサイズの、小さな絵本だった。
 頭上は水色が広がっていて、白い雲が所々にある、想像すらしなかった青空。描かれていた空色に、感動すら覚えた。
 今、上を仰げども、見えるのは見飽きた機械のアンブレラ。ひび割れた隙間から「雨」が漏れている。最近、人々はそれに悩まされているようだった。
 街の中央に聳える柱は古びた塔。飽きる事なく延々と機械を支えている。塔に入った者はいない、中の構造は僕も知らないし――多分誰も、知る人はいない。
 君はまた、傘に向けて唾を吐いた。風に吹かれて揺れる青い髪。色違いの綺麗な目が怒りか何かで歪んだ。
 僕は見ない振り。見ていても見ない振りを決め込む。
「雲雀くん」
「なに」
「あの塔の中に、何があると思いますか」
 そう言いながら、骸は僕の隣に腰を下ろした。その目はどこか遠くを見ていた。
 人が歩き、車が走り、それを飛び越えて向かい側に見えるのは衣類店。この通りにはずっとこういう類の店が並んでいる。骸はそれを見ているのだろうか。
 どこからか甘い匂いが漂ってきた。腹の虫を鳴かせるその匂いは、僕達のいる路上側の、クレープ屋から流れてきているようだ。
 骸は定まらない視線で周囲を見渡しながら、つま先でリズムを取っていた。
 右右左、右左右左、右右左。
 僕の見ている限り、それをずっとリピートしている。一体何のリズムだろう。
 ……僕には知らない事だらけだ。

 骸がぼんやりしているのを良い事に、僕は立ち上がり、駆け出した。目指すはクレープ屋。幸いにも昼にはまだ遠い十時半という微妙な時間帯だった為、並んでいる客は数える程だった。
 列の最後尾に並び、ポケットから財布を取り出す。
 骸に甘い物を一つ、自分にサラダ系の物を一つ。引き換えに渡した福沢諭吉は、野口英男が四人と、樋口一葉が一人と、小銭になって戻ってきた。まだ暖かいクレープを二つ受け取り、小走りで戻る。
「クレープ」
 難しい顔をする骸に、甘い匂いを放つそれを手渡した。骸はそれを受け取って、お礼も言わずにすぐさまかじりついた。
 僕も一口、クレープにかじりついてから先程と同じ場所に座った。
「塔の中に入ってみたくは、ないですか」
 口を動かしながら、骸は言う。やっぱり足でリズムを取っていて、どこか遠くを見ていた。
 咀嚼していたクレープを飲み込み、答えを返す。
「だめだよ、そんなの」
「どうしてですか?」
 円滑に捗っていた会話が、途切れた。

 どうして。そんなの聞かれてもわからない。どうして、あの塔に入ってはいけないのだろう。誰に言われたわけでも、教えて貰ったわけでもないのに。
 植え付けられた常識は、善く善く考えてみても常識としかカテゴライズできなかった。
「それが暗黙のルールだからじゃないの」
 骸に言った台詞のはずなのに、何故だか僕自身に言い訳したような気がした。
 一定のリズムで動作していた骸の足が止まった。骸はクレープの最後の一口を、口腔に放り込んで、ごちそうさまと小さく言った。
 剥き出しのコンクリート。後ろは閉まりっぱなしのシャッター。ずっと座っている所為で臀部が痛い。目の前を通り過ぎて行く人達は皆同じ顔に見える。
「暗黙のルールなんか、ありませんよ」
「どうして」
「皆が知ってこそ、ルールは成り立つのですから」
 骸の論理で言えば、塔に入るのは問題ない、と言う事だった。
 汚染されたこの世界を壊しましょう。植え付けられた常識を引っこ抜きましょう。
 そう言って骸は立ち上がり、僕に手を差し出した。その手を取るか否か、それは僕の自由だ。

 多分、止められる人はいない。
 骸に手を引かれ、食べかけのクレープを持って、走り出した。

 滴る「雨」は今日も眩しい。
 目指すはあの塔。だけど塔に近付いていけばいくほど、擦れ違う人が恐ろしく見えた。掟に忠実な住人なのではないかと。掟破りな僕達を追い掛けてくるのではないかと。
 らしくなく見えない不安に押し潰されそうになり、骸の手をきつく握る。
 すると聞き覚えのある言葉を、骸が呟いた。幼き頃、絵本を見ていた時だろうか。その時に誓った約束の言葉。擦れ違う人にさえ聞こえないような、小さな声だった。
 それを聞いて大分落ち着いたが、僕は幻聴だと思い込む事にした。そうしないと、恍惚とした中に憎悪が湧き上がるような、胸が甘く締め付けられるような、なんとも形容し難い感情に頭が苛まれるからだ。

 塔の入り口、施錠はしていなく、扉は押せば簡単に開いた。鍵など掛けても掛けなくても、同じ事だからだろう。そこに入ろうとする人など誰もいないからだ。
 中は薄暗かった。ひび割れた壁と、所々にある窓のおかげだった。
 埃っぽい空気を吸うと、頭の芯がしゃんとなったような、冷えたような気がした。
 上を見ると、遥か彼方まで続くような雰囲気をも思わせる、螺旋階段が犇めいていた。骸が階段の一段目に足を掛ける。反響する革靴の音。続いて僕も一歩踏み出す。
 骸の背中を見ながら、階段をゆっくり登っていった。手は繋いだまま、階段を登る音だけが響いた。
 何分登ったか、何段登った、分からなくなった頃。ぽっかり開いた螺旋階段の中心に、機械の内部が剥き出しになったような物が姿を現した。
 機械に細かい部品は見当たらない。大きな物ばかりで隙間が多く、向こう側に僕達の登ってきた階段が見えた。歯車が回り、その影響を受けて機械が動き、また歯車が回り。無機質な機械の音が、僕達を嘲笑っているようだ。
 カタカタと機械は笑う。タンタンと僕らは登る。シクシクと誰かは泣く。
 ふと振り返った瞬間、機械の向こう側に白い人影を見た。シクシクと人影は泣く。僕達を見て泣いている。
 僕は骸の背中を押しながら、小声で呟いた。骸は一つ上の段に足をかけたままの姿勢で、振り返る。
「追っ手がきてるよ」
「どうして追っ手だと分かるんですか」
「わからない。ただの勘」

 “逃げよう”と“逃げましょう”。

 声が重なった刹那、顔を見合わせて、僕らは走り出した。
 握った手には、どちらの物なのかわからない汗をかいていた。階段を一段飛ばしで登る。駆け登っていく。時々僕は追っ手の方に振り向きながら、骸に手を引かれて登った。
 階段の先に、開けた道。階段を登りきって、道の始まりに骸と並んで立つ。ライト等は一切なく、遠方は見えない。
 少し先は道は突き当たりで、右と左で別れていた。辺りを見渡しても、看板や表記の類は見当たらなかった。追っ手を惑わせるには、バラバラに逃げた方がいいのかもしれない。
 とても口に出せる事じゃないが、急に心細くなった。
「手、離すつもりはありませんよ」
 思考を巡らせていた僕に、骸は微笑みかける。そして緩んでいた手の力が、また強くなった。
 僕は骸から視線を逸らして頷いた。

 何度振り返っただろう。
 骸の背中に、僕は勢い良くぶつかった。文句の一つでも言ってやろうと骸のから一歩下がり、前を向く。
 風を切る音と、金属が地面に落ちる音がした。耳を塞ぎたくなるような大音量だった。骸の背中越しに見えたのは、白い檻。先程までなかったのに、あの音はこれが落ちてきた音だったのか。
 まんまとはめられた。逃げた先は袋小路だったのだ。
 振り向けば、ぼんやりと光っているような白い人影が立ちはだかっている。
 じりじりと迫る影。相手が一歩進めば、此方は一歩後退する。背中に鉄格子が当たった時、異常なまでに心臓が高鳴った。
 ……捕まるもんか。
 理由なんてなかった。探そうとも思わなかった。あるとすればそれは、君がいるから、なんて曖昧な理由。
 骸の指に自分の指を絡め、僕は言った。
「一瞬あれば、いいよね」
 一か八かの賭だった。
 白い人影が油断する距離で、尚且つ逃げられる距離。そこまで人影を引き付ける。
 目も、顔すらない人影は、未だに泣いていた。間近で見ると、心底から恐怖が湧き上がった。人間じゃない、何かもっと、得体の知れない者。
 緊迫した雰囲気。この場にいる誰かが少しでも動きさえすれば、直ぐに状況は変わる、そんな空気。でも、怯えてる暇なんてない。
 作成決行の合図に、横目で骸と目を合わせる。

 目と鼻の先に迫った影に、持っていたクレープを思い切り投げつけた。
 白い人影が本当に影だったら失敗していただろう。人影がどうなっているのか具体的にはわからないが、クレープが人影にべったりと付く手応えは感じた。
 絡めた指を離し、骸は左、僕は右。床を蹴って人影を避け、また手を繋ぐ。
 脇目も振らずにひたすら走った。
 先程の二股に別れた道へ差し掛かる。勿論塔から出るわけにも行かない。真っ直ぐ走り、選ばなかったもう片方の道へ進む。
 振り向けば、白い影が遠くに見えた。もう追ってくる様子はない。何かに躓きそうになり、一度前を見る。再び振り返った時には、もう影はいなかった。
 何故だか喉元まで罪悪感が込み上げた。

「扉が、見えます」
 反響する骸の声に顔を上げる。
 骸の視線の先は、黒と白とが混ざっていた。人影と見紛う、白い扉だ。その扉は薄暗い廊下でも遠目から分かるほど、白んでいた。
 やっと扉の前まで辿り着き、喘ぐようにして呼吸をする。足は棒のようで、最早体は言うことを聞かない。
 埃を被った扉は、直ぐ目の前にあった。どうやら、扉はただ白いだけでなく、うっすら発光しているようだ。触れれば届く距離にあったたが、触れたら穢れてしまうようで、触れなかった。息を正しつつ、扉を凝視する。
 奥に何があるのか、この扉がどうしてあるのか――こんな扉があった事すら、知らなかった。
 誰が何の為に。
 この扉の奥に対して、畏怖の念すら感じていた。いきなり目の前に表れた光に、どう対象すればいいのか、よく分からないでいる。
「開けますよ」
 骸は汗を拭い、ドアノブに手を掛けた。
 気の所為だろうか。その時、あの白い影の鳴き声が聞こえた気がした。
 どうして泣いているのか。理由すら聞いてやらなかった。今更思い起こして、罪悪感に駆られる。……もう、遅いのに。
 耳を塞いで、僕は骸の背中を見据えた。
「……うん」

 戻れない。塔に侵入した罪、人影を振り切った罪、掟を破った罪……そして世界より最愛の人を選んだ罪。そうだ、僕は世界より骸を選んだ。自ら望んで、骸を選んだんだ。
 ドアノブを回す音が、響いた。開いた扉の隙間から眩い光が漏れる。骸も僕も、その強い光に一瞬動きを止めた。
 振り向いた骸と目が合った。骸は空いている手を伸ばして、笑みを浮かべていた。僕は一度躊躇したあと、その大きな手に、自分の手を重ねる。決めたんだ。やっぱり僕は、骸を選ぶよ。

 眩しさに目を細めながら、骸は一気に、扉を開いた。

 閃光に包まれたのかと思った。
 世界が、空間が、僕の立っているこの場所が、僕だけを残して唐突に白く染まる。状況が読めなくて、反射的に手に力を込めた。握り返された手の力で、僕の意識は元へ戻った。
 しかし意識が戻った方が、夢を見ているようだった。広がる光景に呼吸をするのも忘れ、ただただ見入っていた。これは、夢なのだろうか?
 緑色の地面に、彩りの花が大半を覆い尽くしている。空に浮かんだ白い雲。吹き抜ける緩やかな風が、大きな池の水面を揺らす。水を運ぶ細い川は、細々と池の先にも続いていた。
 この景色、初めて目にしたはずなのに……なぜか懐かしく感じる。
「これと同じですね」
 骸の手には、色褪せた小さな絵本が。それは幼き頃の約束の絵本。
 その中のとあるページを開くと、目の前に広がっている景色と寸分も違わない絵が見開きで描かれていた。暖かみのある柔らかな水彩画のタッチが、子供の頃から好きだった。
 骸はそれを、芝生の上に置いた。
「どうして……」
「取り敢えず座りましょう」
 ああ、くたくたです。
 そう言うと糸の切れた人形のように、骸はその場にへたり込んだ。僕もそれに賛同し、骸の隣に座った。
 骸はまた、伸ばした足を左右に揺らし、リズムを取っていた。僕も真似をして揺らすと、食い違ったリズムの所為で、骸の右足と僕の左足がぶつかった。

 疲労困憊なのも忘れ、二人顔を見合わせて笑った。
 骸の肩に頭を寄せる。僕らの頭上には雨が燦々と降り続いている。

「雨、沢山降ってますね」
「遮る傘もないからね」
 僕の肩を骸は抱く。
 気が付くと、目の前にあったはずの本が跡形もなく消えていた。その代わりに、気の所為かも知れないが、周りの景色が一段と色濃く見えた。
 本はきっと、元の場所に帰ったんだと思う。不可思議な事だが、納得できた。
 ずっと、こんな世界なら良かったのに。骸に聞こえるか聞こえないかくらいの声量で呟くと、骸は突如として立ち上がった。かと思うと、僕から少し離れた場所まで歩いて行き、花を毟り始めた。
「何やってるの」
 そう叫んでも、骸は笑顔で手を振るばかり。
 どうやら花を毟っているのではなく、摘んでいるようだ。骸の片手に色とりどりの花が増えていく。
 せっせと花を摘む骸から視線を右に移すと、大きな池が視界に入った。どこから来たのかアヒルが三匹、すいすいと泳いでいる。暫くの間、それを見ていると、先程までの場所に骸がいない事に気が付いた。
 心配になり辺りを忙しなく見回した。
「骸……?」
「クフフ」
 その時、ふわりと花の甘い匂いが鼻孔を掠めた。気付けば花で出来た首飾りが、僕の首に掛かっていた。
 骸は僕の背後で満足そうに笑っている。
「クレープの仕返しです」
 そう言われて思い出したのは、僕がクレープを買いに行った時の事だ。
 確か骸が彼方を見ているのをいい事に、何も告げず、勝手に走って行って、勝手に戻ったのだっけ。
 骸はそれを気にしていたのだろうか。
「……ごめん、悪気があったわけじゃ」
「わかってますよ」
 ちょっとからかっただけです。
 骸は僕の頭を撫でて、再び僕の隣に腰を落ち着けた。

 それからはお互い、黙ったままだった。僕は骸に寄りかかって、首飾りをまじまじと見ていたし、骸はそんな僕を微笑ましいとでも言うような顔で見ていた。最期の時が淡々と近付くのを、骸もわかっているんだろうか。
 ずっとこんな世界なら、良かったのに。
 そんな事は無理だって、他の誰より僕が知っていた。降り注ぐ『雨』はいつだって残酷で、儚いけれど綺麗だった。
 傘の下に住む僕らにとって、太陽から降り注ぐ『雨』は有害物質以外の何物でもなかった。何千年も前、オゾン層が破壊されてから僕達人間は太陽の下にいれなくなったからだ。
 頭が重くなり、睡魔が襲う。骸は僕の肩をしっかりと抱き、身を寄せ合った。
 瞼を閉じれば、もう起きる事はない。
「僕達、また会えますかねぇ」
「来世があるなら、会えるかもね」
「ありますよ、きっと」
「あるかな」
 顔を見合わせて笑う。
 骸が後ろに倒れ、草の上に寝転ぶと、肩を抱かれていた僕も必然的に寝転ぶ事になった。間近にある草の、花の、風の、『陽』の、骸の匂いがした。
 誰が傘を作ったのかも知らないし、誰がこの場所を残したのかも知らない。でもわかった事もある。それは、誰かがこの景色を誰かに伝えたかった事。傘の外にも世界がある事を忘れないでいて欲しかった事。

「次は太陽の下で会いましょう」
 骸は僕に触れるだけのキスをした。

 ――花が咲き乱れるその傘の上、小さく眠る二人はとても幸せそうな顔をしていた。――

end.

題材曲:THE WORLD END UMBRELLA/ハチ
一度やってみたかったパロディです。
小説内の一番下にある――と――の間を反転させるとなんか出てきます。