| ※スペアラのち骸雲。スペアラは想定です。 名前を呼ぶ事を許したのは、前にも後にもただ一人だった。 「アラウディ」 スペードの発音は、イタリア語の上級階級の訛りがある。その断片が垣間見える度、なんだか嬉しくなる。甘美な声もその訛りも、決して口にしないだけで、僕は大好きだったから。 スペードと恋仲になって、もう三年の月日が過ぎた。相も変わらず仕事に明け暮れ、逢瀬を繰り返し、偶に体を重ねた。この流れは付き合った当初から変わらない。 今日は明日に備えて体を休めろと、ボス直々に言われ、スペードと穏やかな一日を過ごしている。滅多に重ならない休暇、今日という二十四時間は僕にとってもスペードにとっても貴重な時間だ。 「アラウディ?」 心地よい声に目を伏せていると、どうやらスペードは寝ているのだと勘違いしたらしい。俯き加減の顔を隠していた、僕の前髪がかき上げられる。ゆるゆると目を開け、スペードの方に視線をやると、スペードは胸をなで下ろしたようで、僕に向かって微笑んだ。 「目を閉じていただけだったのですね」 頷くと、スペードは僕の髪を元通りにし、頭を一撫でしたあとで、僕の肩を抱いた。見つめられるとくすぐったい思いが込み上げ、僕はまた顔を伏せた。静まり返った夜に、二人分の重みを乗せてソファの軋む音が響く。 次にスペードの視線は、少し離れた真向かいの、壁に掛かったカレンダーに移った。あと数十分もすれば、赤い円の付いた日付に変わる。 「死に戦」 僕が零した言葉に、スペードはゆっくり確かめるように相槌を打った。 「そうですね」 「若い時に死ねれば良いって思ってた」 「ほう」 「それは以前の話。……今は嫌」 スペードは隣で座していた僕を、向かい合わせに膝の上に乗せ、優しく宥めるよう抱き締めてくれた。これ以上、カレンダーを見なくていいように、という意図も含まれていたのかもしれない。 口数が少なく、言葉が足りない時もある。それでもスペードは、僕の言いたい事をきちんと汲み取ってくれる。スペードといると、いつだって気が楽だった。 だが、そんな時間も長くは続かない。 「アラウディ、君は明日、最後まで戦場に残るでしょう」 突然、何を言うのだろう。唐突な予言の言葉に、不安が走った。スペードの表情を見ようと体を離そうとするも、体に回された腕に力が込められ、それは叶わない。 首を傾げる事も出来ないまま、スペードの温もりに包まれ、ただ話を聞く事しか出来ない。 「どうか落ち着いて聞いて下さい」 「……君がそう言うなら、そうする」 スペードは微かに笑い、話し始めた。 「僕は酷い裏切り者です。しかし、どうしても君に背を向けるような事だけは出来なかった……。 此方側の情報を、向こうへ流したのは紛れもなく僕自身です。個人の戦闘データも、此方側の作戦も、皆が知っている事から知らない事まで、全て流しました。これで明日の勝算は限り無くゼロです。 ですがアラウディ。君は雲の守護者という事以外、何一つ、何一つ向こうは知らない。僕は君の事を誰よりも、何よりも知っていたのに……君が口数が少ないという事も、僕の声が好きだという事も、そんな些細な事まで教えたくないと思いました。実際、僕は教えなかった。知っていて知らない振りをしたんです」 中途半端な裏切り者、とスペードは自嘲した。僕は何も言えずにスペードにしがみついた。 スペードは裏切り者なんかじゃない。確かにボンゴレという機関に対しては裏切りを働いたにしろ、僕にだけは真実を打ち明けてくれた。それだけでいい。スペードは、酷い裏切り者なんかじゃない。 スペードの肩に顔を埋めていると、脈拍がいつもより早いのが分かる。生唾を飲み込む音が、僕を更に緊張させた。確か生唾を飲み込むという慣用句には、目の前の物を欲してたまらない、と言った意味もあったような覚えがある。だとすればまだ、本題はこれからなのだろう。 「アラウディ」 悲哀に満ちた声で名前を呼ばれ、僕は固く目を閉じた。 言葉遊びにかこつけた予感が、当たりませんように、と頭の中で繰り返した。 「僕に付いて来てはくれませんか」 一瞬、遅れて目を開く。 付いて来て……それはつまり、共犯者になる、って事? 意図は理解出来たものの、言葉の意味にたじろいだ。 逃避行ではない、これは心中。どちら側についたとしても、僕らの命は終わるに等しい。僕はスペードに、最期の選択肢を迫られている。 勝算の殆ど無い此方側か、事が済めば始末される向こう側か。それだけを秤に乗せるのなら、軍配は前者に上がる。しかしスペードの分を乗せれば……大袈裟に言えば乗せた瞬間に秤が壊れるであろう程、結果は明白だった。スペードの存在一つで、常識も道徳も覆される。その存在で揺り動かされた選択をすれば、触れてはいけない物に触れた時の罪悪感と、程良い陶酔に似た感情が込み上げる。 スペードと一緒なら、僕は幸せになれる。同時に、失う物は大きい。 此方側に残れば、僕はスペードがいない苦しみに苛まれる。だが、希望はある。 苦渋の末に下した決断は、果たして最善のものだっただろうか。僕には一生、いや死んだってわからない。 「ごめん、ごめんスペード……」 ならばスペードと共に、とも考えた。しかし僕は、雀の涙ばかりの可能性を捨てきれなかった。それで死んだら、きっと僕は後悔する。後悔して後悔して後悔して、悔やみきれなくて怨霊になるかもしれない。それでも賭けた。だってそのほんの少しの可能性は、スペード自身が残してくれたものだから。それに人生を賭けてもいいと、スペードだから思えたんだ。 スペードはわかっていたのだろう。誰よりも僕の事を知っている男だ、きっと僕より僕の事を知っているに違いない。 スペードは罪悪感に押し潰されそうになる僕を、慈しむよう撫でた。腹の底では僕の事を殺したいと思っているかも知れない。今まで連れ添ってきたにも関わらず、最後の最期で裏切った僕を。 軽く肩を押されると体が強張った。しかしスペード視線に気付き、顔を上げる。 「また会うときは、同じ間違いは繰り返さないといいですね。でないと、僕は来世の君に愛想を尽かされてしまいます」 舌で涙を掬われる。いつの間にか僕は、自分でも気付かぬ内に涙を流していた。今まで泣いた事なんて、片手で事足りる程度だったのに。 次々と零れる雫。止めようとすればするほど溢れ出す。しゃくり上げる僕に、スペードも困り果てたのか、僕を優しく抱き締めて繰り返し大丈夫、と囁いた。その声を聞いて、余計に涙は止まらなくなった。 ずっと泣いたら、スペードは考え直してくれるかもしれない。浅はかな、それこそ可能性はゼロに等しい考えだけれど、本気で僕はそう思った。別の道を選んだのは紛れもない僕自身だが、スペードと離れるのは身を裂くより耐え難く、辛かった。 だから可能な限り泣こうと思った。しかしスペードの顔を一瞬見たのがいけなかった。その表情で全てわかってしまった。 スペードの決心も覚悟も、愁いも。 馬鹿らしい。僕は一体、何をしているんだろう。羞恥と自己嫌悪を引き換えに、涙なんてすぐに引っ込んだ。スペードの顔が見れない。優しく頭を撫でるその手は、もう永遠じゃないんだ。 「さようなら、愛しています、アラウディ」 俯く僕の顎を持ち上げ、スペードは言った。悲しそうな、寂しそうな、でもどこか幸せそうな表情だった。対してスペードの目に映った僕は、どんな顔をしていただろう。 またもや無意識の内に涙が流れた。さようならと愛してるを同時に言うなんて、卑怯だ。少しばかりの鬱憤を晴らすように、スペードの胸板を軽く叩く。スペードはそんな僕を強く抱き締め、何度も何度も名前を呼んでくれた。僕も負けじと抱き締め、愛しいスペードの名前を呼んだ。壊れた機械のように、お互い名前だけを呼び合った。 部屋のドアが閉まると、見計らったように深夜零時を告げる鐘がなる。 先程まで二人を乗せていたソファーの背後に、ゆらりと人影が現れたのを感じた。 「これでいいんだろう? ……デーチモ」 袖で涙を拭い、悔しさに歯軋りする。 拭っても拭っても涙は流れ、嗚咽も止まらない。デーチモはそんな僕の肩を叩き、あやすように言った。 「泣くな。お前には似合わない」 デーチモはいつもの威厳溢れる足取りではなく、少々覚束無い足取りで部屋を出ていった。デーチモだって辛いだろう。しかしそれ以上にスペードの事が心配だった。 僕は被害者じゃない、スペードを傷付けた加害者だ。本当に酷い裏切り者は、僕の方なのだから。 偶々応接室にいた僕と、偶々応接室に来た骸とで、偶々ポーカーをしていた。今のところ零勝五敗、僕の負け越しだ。 恨む対象はもちろん骸だが、馬鹿なのは自分。骸に応接室内を漁る許可なんかしなければ良かったのだ。そうしたらこの元凶であるトランプが出てこないで済んだのに。 正直、骸が部屋のどこかからトランプを引っ張り出してきた時から嫌な予感はしていた。そしてポーカーと来たものだ。その時から僕の負けは決まった。ケースに赤字で堂々と没収、と書かれているトランプは、何年か前に僕が生徒から取り上げたものである。何故捨てておかなかったのだろう。 手札のトランプを叩き付けるようにして机に置く。窓から差す夕日に照らされた役はスリーカード。向かい側に座る骸はそれを見てほくそ笑み、自慢気に手札を見せた。これで零勝六敗。もはや勝ち負けの決まっている勝負に、嫌を通り越して呆れる。 「どうせイカサマでもしてるんでしょ」 「言いがかりは良くないですよ。素直に負けを認めて下さい」 「だいたい、ロイヤルストレートフラッシュなんて出来るわけないじゃない。しかも五回連続で」 「可能性が限り無く低いだけで、出来ない事はないですよ? 恭弥のその肘だって、机をすり抜ける可能性はあるんですから」 信じたわけじゃないが、万が一すり抜けたら困るので頬杖を付くのはやめた。骸はあの変な笑い方で僕を嘲る。卑しく笑う、トランプのジョーカーとそっくりだ。危惧するに越したことはないだろうに。 睨み付け、真意を問う。 「それ、嘘でしょ?」 「本当です。可能性が限り無く零に近い、というだけで、起こり得るんですよ」 適当に相槌を打ち、隙を見てトランプを回収する。骸がもう一回、とぬかす前にさっさとしまっておこう。しかし骸はトランプを集める僕の手をつかみ、声音だけは申し訳なさそうに、もう一回と言った。 ……ぶん殴ってやりたい気分だ。 「もういや」 「お願いします。これで最後にしますから」 真面目な顔で頼まれると、弱い。 結局、渋々ながら了承してしまった。骸は喜々とした表情で僕からトランプを引ったくる。 暇を持て余していると、手慣れた動作でトランプをシャッフルする指に目がいく。長くて、細くて、でも骨ばったその指は確かに男のそれだ。白い肌と整った爪は荒れというものを知らないようで、見ていると苛々する。いつも僕はこの手に翻弄されているのだ、ポーカーの時も、僕に触れる時も。綺麗だからこそ、余計に苛立ちが募る。 「君は信じますか」 ふと骸が漏らした言葉。僕は指から目を離し、骸の顔を見た。その碧眼は下を向いており、口元は微かに笑っている。 「何の話?」 「前世の話です。君の前世と僕の前世は僕達と同じように付き合っていたんですよ」 「……信じたくない」 「クフフ、隣にいってもいいですか?」 ため息は肯定の合図。 骸は身軽に机を飛び越え、僕の隣に腰を落ち着けた。肩の位置に若干の差があるのがまたむかつく。 「これじゃ前と同じ……」 「恭弥?」 「……なんでもないよ」 そうだ僕は裏切り者。本当は骸といる資格なんてない。骸が悪いんだ、遠ざければ遠ざけるほど距離を詰めてくる。バカじゃないかと思う。あいつに前世の記憶があるというなら、僕の事だって分かるはず。なのにどうして。僕がわざわざ関わらないようにしているというのに、どうして壁を壊そうとするのか、どうして土足で踏み込んでくるのか、どうして気付けば傍にいるのか。 骸のやり方はずるい。何度もそんな事をされたせいか、僕も内心どこかでそれを望むようになってきた。どうやら気が狂ってきたみたいだ。侵されるのがこんなに気持ちいいだなんて。 「……結局、ボンゴレは今も健在ですね」 「君は詰めが甘いんだよ、スペード」 半ば独り言のような溜め息混じりの言葉は、空気に溶けていった。 「何故、その名前を……」 「さぁ?」 君は覚えてないの、僕の事。 今まで逸らしていた目をしかと見つめ、問いかける。 骸は答えの代わりに眉をしかめ、恐る恐る僕に触れようとした。だから僕はその手を引き寄せて、しがみついてやった。骸も理性がはちきれたように、僕を強く、それこそ壊す程に抱き締めた。本能が赴くままに、キスを交わしながら言葉を交わす。 「ずっと、忘れたかった」 「僕もだよ」 「僕は慢心に酔って判断を誤った大馬鹿者です」 「それなら僕は、愛に正義を振りかざした裏切り者だ」 何億分の一の確率だろう。こうして再び出会えて、抱き合って、キスするのは。それはきっと、五回のストレートフラッシュよりずっと低い確率。 骸の手が僕の体を弄る度、吐息が熱い物になっていく。頭の中がぼやけてくる。まるで自分の体じゃないみたいだ。 「ねぇ、蔑んで、嬲って、罵って、それで許してあげる。だから君も僕を虐げて、 背中に回した手で、骸のポケットにそっとスペードのエースを忍ばせる。その大きな背中にあてがうのは、錆びたナイフ。 ねぇ、なんで僕が許しを乞わないか知ってる? それはこれからも罪を犯し続けるから。愛想尽かされるとしたら、きっと僕のほうだね。 名前を呼ぶ事を許したのは、前にも後にもただ一人だった。 end. 報われない輪廻は続く。それでも二人は転生するんでしょうね。 初めてのスペアラでした! 想定ですみません。でも楽しかったです! ※「1925」以降試験的にレイアウトを変えています。 |