出会い頭に言った。さよならと。
 それなのに。あれから一年経った今、僕の隣には雲雀がいた。長く伸びた影が、僕らの間に少しばかりの隙間と、繋がった手とを映していた。
 河川敷の青々とした芝が、緩やかに流れる澄んだ川に映える。余光で赤と青がない交ぜになった夕方の空は、どことなく妙な静けさと、一度見たら目を奪われるような魔力があった。時折、川の魚が跳ね上げた飛沫が、光を受けててらてらと輝いた。
 少年野球チームが土煙にまみれて練習をしている、その上にある堤防の、田んぼのあぜ道のような道を、僕らは並んで歩いていた。今日は雲雀の誕生日だった。
 
「僕達はいつになったら、懲りるんでしょうね」
「知らない」
「他人事みたいに言ってますけど、君も当事者ですからね」
 
 露骨に視線を逸らす雲雀の後頭部を見つめる。
 多分、多分。僕らは今、「を」とか「Y」あたりで足踏みをしているのだと思う。相手がいつ足を踏み出すのか、ちらちら様子を窺いながら、出そうとした足を出さずにまた元の位置へ戻し、地団駄を踏むような足踏みばかりしている。数センチ、いや、数ミリ先の「ん」だとか「Z」に進めない。
 そうしているうちにも、お互いの距離は縮まり、今やどこか繋がっていないと、呼吸すらままならないくらい依存してしまっているのだ(雲雀はともかく、僕はそうだ)。
 指を絡め取り、きつく握ると、煩わしそうに振り払われた。
 
「そういう事、言わないでよ」
 
 怒った、のだろうか。
 表情は見えないが、声色がぎすぎすしていて、雰囲気も居心地が悪い。
 
「なんでそうやって、それが必須みたいに言うのさ」
 
 言い捨てた雲雀はずんずん歩いていく。
 僕は立ち止まって、恭弥の後ろ姿を眺めながら、ぼうっと考え事に耽った。
 雲雀は一度も振り向かず、やがて小さくなって、木陰に消えた。空を仰げば、赤が青に押されていて、すっかり夜の匂いがする空になっていた。
 
 
 
 仕切り直し、そうメールがきたのは八時過ぎのことだった。
 返信する際、思い切ってホテルの予約をとってあることを告げると、数分経ったあとに、素っ気ない了承の返事だけが返ってきた。文字ではなく直接話していたとしたら、本当に微かな頷き、もしくは声だっただろう。でも今、僕の目の前には黒い文字で確かに、うん、と書いてあり、それがなんだか積極的に思えた。ゴシック体に悩まされたのは初めての経験だ。
 それから部屋番号を伝えて、先にホテルの部屋で待っていると、唐突にドアが激しくノックされた。開けたドアの先には、物珍しいスーツ姿の雲雀が、無愛想な顔で立っていた。
 腕時計を確認すると、九時ぴったり。過不足なく、雲雀がここへ来ると宣言した時間通りだ。
 
「夕食は召し上がりましたか?」
「まだ」
「ではどこか食べに行きましょう。ちょっと遅い時間ですが、予約は取ってありますので」
「……うん」
 
 ほら。確かに微かな頷きじゃないか。
 少しだけ揺れた雲雀の頭を撫で、後ろ手でやけに重量感のあるドアを閉めた。しかし、スーツの上着を忘れて、即踵を返した。
 貧乏揺すりをしながら顰めっ面で待っている雲雀の元へ、上着を持って駆け寄った。やはり雲雀は僕が隣に並ぶより先に、ずんずん歩いていった。
 ホテルを出ると、生暖かい都会の風が吹き付けた。
 予約を取った和食料理店はさほど離れていない。他愛もない会話を交わしている間に、着いてしまったくらいだ。
 完全な個室ではないものの、仕切りというか隔てがあり、周りを気にせず食事ができる。雲雀のことを配慮した結果でもあるが、僕にとっても都合のいい造りだ。
 雲雀に焼き魚の食べ方を教わっていると、料理が運ばれてきた。
 
「しんなりしてますね」
「しんなり」
「あの川の魚は、てらてら光ってましたよ」
 
 結局魚は雲雀にほぐしてもらい、僕はそれを食べた。そうしたら、喉の内側にちりっとした痛みが走った。
 どうせ小骨だと高をくくって、気にせず食事を続けるが、どうも気になる。それに、思ったよりもちかちか痛い。
 箸を置いて味噌汁を啜るが、かえってより痛い位置に骨がつっかえてしまった。思わず噎せかえると、雲雀が箸を置く。
 
「骨でも刺さったの?」
「痛いです」
「ご飯丸飲みすれば取れるよ」
 
 雲雀の言うとおり、一口大のご飯を丸飲みすること三回目、ようやく骨は胃へ向かったようだった。
 
「取れれば、どうってことないでしょ」
 
 確かにそうだ。取れれば、どうってことない。取れさえすれば。
 ふと、何かに類似しいる気がした。
 骨は取れたはずなのに、僕の喉元には、まだ違和感が残留していた。
 
 
 
 拭えない。なにか問題解決の手掛かりを見つけたような気もするし、パンドラの箱を開けてしまったような気もする。
 雲雀の喉仏に吸い付いても、僕の唇に雲雀が吸い付いても、頭の中には魚の骨が引っかかっていた。
 歯と手を使って袋を破ると、雲雀がそれを奪い、苦し紛れに言う。
 
「今日みたいに、他人との隔ては必要だけど」
 
 中が脈打つたびに、雲雀は目を細めて、引きつるように息を止める。
 
「既に入り込んでる人との隔ては、境界線は、いらないよ」
 
 それはつまり、0.02ミリメートルの壁さえも、いらないと言うのだろうか。
 雲雀が投げたコンドームは狙ったかのようにゴミ箱に収まった。しかしその逝く末は雲雀の興味の対象外だったようで、
 
「中、出していい……違う、出して」
 
 混ざり合った精液と精液は、どうやったら精子一つ一つまできっかりに、二つに戻せるのだろう。
 混ざったところでどうせ精液なのだとしたら、もう、戻さなくてもいいのではないか。僕はそうも思うのだ。
 
 
 
 いつも思っていたが、雲雀の文字は非常に達筆である。なにもこんな手紙まで、こんな綺麗な文字で書かなくてもいいだろうに。
 藁半紙を朝日に透かすと、黒々とした文字がよく見えた。
 取ろうとすればするほど取れない、喉に引っかかった魚の骨と、遜色ない。
 初めてこそ痛みや違和感はあるが、やがてそれにも慣れ、気付けばいつの間にか取れている。その瞬間も知らないままに。
 そしていつしか喉に刺さっていた一時の骨の事なんて、すっかり忘れるのだろう。該当の魚を見れば思いだすかもしれないが、所詮その程度である。
 隣で眠る雲雀の喉をさする。トラウマにもなり得ない、小さな傷。それだけ。
 さて、雲雀の計算はまたも外れたようで、まだ彼は眠っている。まさか僕が四時に起床するとは思ってもみなかったのだろう。僕より先に目覚めて、この藁半紙だけを残し、消え去る予定だったに違いない。
 なんて身勝手なのだろう。僕を残して、一人先に、「Z」に行くというのか。
 そう考えたらこの達筆な文字が酷く憎く思えてきて、僕はそれを丸めてゴミ箱に投げつけた。
 雲雀の文字は、あのゴシック体より僕を悩ませた。
 
「恭弥」
 
 一般的な男のそれより細い、雲雀の肩を掴んで、仰向けにさせる。まるで死んでいるかのように雲雀は抵抗なく転がり、シーツから覗く肌が惜しげもなく太陽光の下に晒された。
 
「起きて下さい、恭弥、ねぇ!」
 
 僕はなぜ、こんなに必死なのだろう。
 恭弥は強めた語勢に驚いたのか、前触れもなく目を開けた。そして飛び退くように上体を起こし、異形な物を見る目つきで僕を見ていた。しかし僕は確認した、後ろに回した手がベッド脇のナイトテーブルを弄っている事を。
 僕は忙しない雲雀を宥めるように、腕の中へ閉じ込めた。
 
「夢ですよ」
 
 程なくして、弄っていた手の動きが止まる。
 
「ゆ、め?」
「そう、全部夢なんです」
 
 まだ行かせない、否、行かせたくない。
 横暴だとはわかっている。しかし恋愛とは、本来横暴なものであるはずだ。
 ここまで繋がっているのに、あっさり雲雀だけ「Z」に進もうだなんて。繋いだ手はそのままに、雲雀だけ「Z」にいるなんて。依存しているのはあちら側も同じなのに、僕の気持ちを知った上で進もうなどと思ったのか。狡い、狡猾過ぎる。
 雲雀はどれだけ懊悩したのだろう。臆したのだろう。
 歳月、人を待たず。確かに決断は迫られていた。それでも僕はまだ大丈夫だと、心のどこかで安心していた。雲雀の決意に気付いていたのに。
 雲雀を責める事でしか自分を守れない、弱い僕。
 
「夢……」
「だから君はもう少し、おやすみなさい」
 
 雲雀は半ば気を失うようにして眠りについた。起きても構わない、上下する背中を潰れるくらい抱きしめた。
 もう少しだけ僕の心に、刺さったままでいてはくれないだろうか。いずれ僕らは「Z」や「ん」に進むのだろう。しかしまだ、疼く喉の痛みが傷になるまで、待っていて欲しい。
 それが横暴で我が儘な僕の、最終的な願いだ。
 二度目のさよならはゴミ箱の中に。
 
end.
 
恭弥くんおめでと!
相変わらず祝う気ゼロのお話でした。最近似たような話しか書けません。