| 『わい、』 突然、骸はそう言って、僕に向かって微笑んだ。 『わぁい?』 くふふ、と笑って首を振ると、骸は偶々応接室にあったホワイトボードに歩み寄った。黒のペンを手に取り、ボードに大きく文字を書き始める。 あの日は確か、近隣の市町村が交友関係を深める為だとか言うふざけた会議があったんだっけ。それの並盛中学校代表者が僕で、骸にはプレゼンの練習を手伝って貰ってたんだ。 ホワイトボードに書いた文字をペン先で指し、僕に見せる骸。 『Y、ですよ。アルファベットの』 今度は赤いペンを取り、二股に別れた所に丸を書いているのが、辛うじて横から見えた。だが書き終わったのかペンを置いても尚、骸はホワイトボードの前から動こうとしない。 不審に思い始めた所で骸は漸くボードの前から退いた。その顔が寂しげに笑っていたのを、今でも鮮明に覚えている。 『別れ道、そんな気がしませんか?』 それは十年前に交わした、何気ない会話。 ――まだ髪の短かった骸の言葉に、微かな恐怖を覚えたあの時。一瞬心だけがタイムスリップした気がした。現実逃避だとは分かっているが、戻れたらどんなに良いだろう。本当の恐怖など知らずに済んだあの日に。強ち骸の言葉は間違っていなかったのかもしれない。 力の抜けた人間の体は、それはそれは重たくて。半ば引きずりながらもだらりとした腕を肩に乗せ、どうにか運んでいった。一歩進めば、三滴。二歩進めば、六滴。骸の体の何処からか、ぱたぱたと血が打ちっ放しのコンクリートの地面に、音を立てて落ちた。すぐ耳元にある骸の顔。呼吸をする度に器官からはひゅう、と耳障りな音が聞こえてくる。 「……死なせるもんか」 擦れて音が鳴るほど奥歯を噛み締め、呪文のように何度も唱えた。 死角になる場所を見付けて、やっと骸を下ろし、壁に上半身を寄りかからせて座らせた。しかし、腕に力が入らないのか、骸の体は横に倒れそうになる。反射的に肩を掴んで、体を支える。手を離したら、骸の体は倒れてしまうだろう。だが、このままずっと支えている訳にもいかない。肩を支えながら、同じように骸の隣に腰を下ろした。すると骸の頭は丁度僕の肩に乗り、ずり落ちる事はなくなった。 「重いよ馬鹿……」 わざとらしく溜め息を吐く。確かに重いが、肩に乗った頭を退けようなんて気は微塵も無かった。 そんな僕の気持ちを汲み取ったのか、いないのか分からないが、骸は肩から頭を上げ、あの嫌みな笑い方で途切れ途切れに笑った。 「す、みま、せ」「喋らないで」 骸の謝罪を遮る。 骸に非がある訳では無く、僕が何か被害を被った訳でも無いのに。無意味な謝罪なんていらない。それに、口の端から血が一筋流れているというのに、意味の無い謝罪で命を削るなんて、馬鹿げている。 それと、ただ単純に、骸の声が聞きたくなかった。 苦しいのに、笑うな。死にかけの癖に、なんで笑うんだ。謝るくらいなら、自分の心配しろ。君はいつも僕の事ばかり……。あんなに好きだった声なのに、今の骸の声は、自嘲気味で、聞きたくない。 右手に触れる骸の左手をきつく握った。 「……嘘吐き。もう君の言葉は信じない」 骸は僕の手を弱々しく握り返す。 その力の無さ、冷たい手に愕然とした。僕ですら適わない骸が、こんなになるなんて。 どこかでこの現実を避け続けていた。逃げようのない事実が突き付けられたのは、皮肉にも、焦がれている骸の体温から伝わってきた物だった。 どうして骸が。 ただ単純な任務で、ボンゴレと敵対関係にある中規模敵ファミリーを壊滅させるだけだった。こういう任務は僕や骸が適材適所で、今までに何回も繰り返してきた筈なのに。二人だけで敵地に乗り込み、一方的に攻撃を仕掛けていた。その時だ、突然隣にいた骸が膝から崩れ落ちたのは。 優勢だった状況は一変。隠れて攻撃を仕掛けるというスタイルは性に合わず、いつも一ヶ所に敵を集め、その中心でひたすら攻撃を繰り返すという大胆なやり方を主としていた。今回も例外ではなく、最悪の事態になった。今がチャンスとばかりに四方八方から迫り来る敵。骸を守りながらの攻撃は大したダメージにもならず、増え続ける敵に何時しか防戦の一方となった。 何度呼び掛けても骸は動く気配すら見せない。攻撃を受け、一歩下がると骸の血が跳ね返った。床には血溜まりが広がっていった。 僕はといえば、守るだけで精一杯。小規模ファミリーだったなら、骸を置いて敵の群れに突っ込んで行っただろう。時間をかけずに敵を倒すなど造作もない事。だがこの人数、僕一人ですぐに片付けられる訳がなかった。苦戦を強いられている内に、きっと骸は……。 つい先程の状況を思い出して、頭が痛くなった。その先は、考えたくない。 ねぇ骸。君の手に触れた事、君の隣で生きようとした事。それは罪だったのかも知れないね。僕が犯した、最大の禁忌。 「わい」 右手に瞬間的に力が入った。その力で我に返り、骸の方に目を遣る。骸が僕の手を握ったのだろうか。その時の力は、いつも握ってくれる力と同じくらいに強かった。 空いている骸の右手が動く。じっと見ていると、自らの体から流れ出す赤い液体ををその血色の悪い指に付け、それをインク代わりにゆっくり「Y」と書いていた。僕と骸の間にある、血で書かれた文字は瞬く間に乾いていき、目に焼き付く程の綺麗な赤は、赤黒く、汚くなっていった。 ワイ、あの日と同じだ。今から丁度十年前の、あの時と。 「僕は、み、ぎ」 Yの上部、つまり二股に別れた部分。その右側をなぞり、骸は言った。指に付けた血はもう乾き切っているのか、血の上にまた血が重なる事は無かった。 骸は再び血溜まりの中に指を付ける。赤い血に白い指はよく映えると思った。 「きょ、やは、ひだ、り」 今度は左側。付けたばかりの血は骸が手を移動させる度に垂れた。先程と同じようにYの左側の部分をなぞるが、インクの付けすぎで文字が太くなってしまっている。そしてYの左側の少し離れた所に、骸は震える指でハートマークを書いた。 骸に視線をやると、骸も僕を見ていた。しかし僕とは対照的に、骸は笑っていた。 「Yの字は……別れ道、なんでしょ」 血が乾ききらない内に左側にあるマークを消した。それは消えずに靡いて、最早ハートマークとしての原型を留めていなかった。 骸が笑っている理由を僕は知っていた。けれど何故か骸と同じようには笑えなかった。骸がまた飽きもせず何かを書いているのが、ただ視界の端に映っていた。 骸が僕の手を握る。 気が付けば、Yの横に、もう一つYが出来ていた。でもそれは一つ目のYとは少々違うもので。 「逆さ?」 もう一つのYは、上下反対だった。 「繋がる、んです、よ」 途切れ途切れながらも、骸は懸命に話し続ける。本当は指一本動かさずに喋らないでただじっとしていて欲しいが、骸に言っても、それは聞けないとばかりに笑うだろう。 それに、この言葉は何となく遮ってはいけないような気がした。 「離れた手は、また、い、つか……繋が、るんです、よ」 Y、二股に別れる道。 でも逆さまなら……二股に別れた道が、一つになる。 言い終えた後の骸は、息を目一杯吐き出し、目を閉じて僕の肩へ再び頭を乗せた。長い髪がくすぐったい。 「……死ぬの?」 幾ら待っても、その質問に骸からの答えない。一分一秒がやけに長く感じた。静寂の中、時間だけが過ぎていく。 ねぇ、なんで否定しないの。首を横に振れば済む事じゃないか。笑って、違いますよ、なんて、あの変な笑い声も交えて言ってよ。僕を宥める言葉なんかよりも、遠くに行かないって約束してよ。 骸を咎めるように、繋いだ手を握り締めた。また繋がる、その言葉を本当に信じていいの? 離れてる間は、君の温もりはないんだよ。そんなの嫌だ。離したくない。離さなければ不確かな未来の可能性を信じるなんて、女々しい事もしなくて済むでしょ。 ねぇ骸、君がいなくなって未来永劫揺るがないのは、君が死んだ事実と、僕等が愛し合った事だけ。 それ以外は何も保証出来ないよ。この先ずっと存在しない骸だけを愛していられるか、なんて聞かれたら、僕はきっと押し黙ってしまう。イエスと断言出来る自信なんて、僕にはないんだ。 それなのに。本当に死ぬの……? 「許さないよ、そんなの許さない!」 ずっと隣にいるって言ったじゃないか。約束するって言ったじゃないか。 気づけば、伸ばした骸の足の上に跨り、骸の肩を掴んでいた。 「な、かない、で、下さ」 「君が泣かせたんだろ! ……馬鹿骸。死んだら生まれ変わったって許さないから」 視界が滲む。目の前の骸がぼやけて見えない。 泣き顔、見られたくない。骸の胸元に顔を押し付けた。骸の匂い、骸の鼓動、骸の温もり。今まで傍にあったものが、全部消えてしまう。 「行かないで、行かないでよ」 駄々をこねる子供のように言った。途端に涙が溢れた。今まで我慢していた分、止めようとしても止まらない。 こんな失態、骸の所為だ。 止め処ない涙は、落ちる事なく骸の服に吸い取られていった。 「こんな顔でさよならしたくないのに」 骸の前で泣かないと、決めたのに。 「きょう、や。恭弥、ごめん、なさ」 「また、繋がるんでしょ」 骸の手が僕の頭を撫でる。子供扱いしているような、その動作が煩わしくて、骸の手を振り払った。その拍子に顔を上げる。 ……僕は最後まで我が儘で素直じゃなかったね。天の邪鬼で、気紛れで、いつも君を困らせた。だけど、今は少しだけ素直になってもいいと思うんだ。強がるのは案外疲れるから。 「最後にもう一回だけ、信じてあげる」 待ってるよ。女々しくても、叶うのは何十年、何百年後かもしれないけれど、それでも。骸自身に誓ってあげる。意地でも約束守るから。それが僕のプライド。 見据えた骸の目の中に、僕が映った。赤と青の目、好きだったよ。 そっと目を閉じると、頬に手が添えられる。唇に暖かいものが触れた。冷たかった君の手も、今は暖かくて。 罪だったのかも知れない。その手に触れた事、骸の隣で生きようとした事。でも罪だっていいんだ。 罪を犯してでも触れた手は、涙が出るほど暖かかったんだ。 唇に触れていたものが離れると、漸く目を開ける。 「愛して、ます」 僕が静かに頷くと、骸は一滴だけ涙を流した。それがあまりにも綺麗で、儚くて。気づけば今まで口にしなかった五文字の気持ちを、唇は勝手に紡いでいた。 僕も、愛してるよ。 また出会う時も、お互い同じ気持ちで、変わらない気持ちで、会えたらいいね。そしたらもう一度、手を繋いであげる。 だからその時まで。 「またね」 涙でぐしゃぐしゃになった顔。 それでも精一杯、笑ってみせた。 ボンゴレ医療部隊が到着したらしい。いらない援軍も来た。ボンゴレ十代目の声で耳元のイヤホンがそれを告げたのと、慌ただしい足音が遠くから聞こえたので分かった。 硬直が始まる前に骸を担いで、足音のする方向へ向かう。一歩進めば骸の血と僕の頬から伝った水滴が三滴、二歩なら六滴、三歩なら九滴。あの時と同じく、骸の頭は僕の横にあるのに、耳障りなあの呼吸はもう聞こえてこない。 死角になる場所から出ると、医療部隊が僕達を探している様が見えた。一人が僕の姿を見つけ、何か叫びながら担架を持って駆け寄ってくる。骸の脈がもうない事を伝えると、焦っていた隊員は一瞬動きを止めて、落ち着きを取り戻した。 静かに骸を担架に乗せる。冷たくなった右手を両手で包んだ。 僕から骸に口付けをしたのは、最初で最後だった。 『――別れ道なんて思わないよ』 骸から目を逸らす目的で、ホワイトボードとは反対側の方向に顔を向けた。あの時は今よりも素直じゃなくて、天の邪鬼な態度ばかり取っていたから、無意識の内に自分から出たその言葉の意味が考えれば考える程に恥ずかしくなって、君の顔すらまともに見れなかったんだよ。 鈍い音がした。横目で骸を見る。骸はホワイトボードを縦に回転させた。Yが書いてある方は裏面になる。そしてボード自体を動かし、裏面にいったYを再び僕の方へ向ける。すると現れたYは逆さまになっていた。 『ほら、こうしたら』 骸は僕の横に腰掛け、恥ずかしがる僕をきつく抱き締めた。 『また一緒でしょう?』 体を離すと、俯いている僕の手をとり、指輪をはめる。そして指を絡めて骸は僕の手を握った。 日差しに反射して光った指輪は、僕の手と、骸の手に。二つの光を放った。 『うん』 Yの道。それは二つに別れてしまう。でも逆さまにすれば、また会えるね。 いつか再び繋がる手。君に会えるまで、空けておくから。だから、さよならは言わないよ。 最後のボタンは、僕が押した。 堅く閉じられた扉の向こうに、僕は行けない。 背中を向けて、君は歩き出した。 僕は右、骸は左。選んだ方向は別々だけど、繋いだ手は離れてしまったけれど。 背中を向けて、僕も歩き出した。 涙拭って前を向く。進むしかない、今はただこの道を。埋まっていたはずの僕の隣は空いているけれど、あの温もりはもうないけれど。 約束だけをただ信じて歩き続ける。偶には走って、転んで、立ち止まる事だってあるかもしれない。それでも戻る事だけは絶対にしない。 だって、その道はきっと、君に繋がってるから。 「また、ね」 あの日、暖かい日差しを受けて光った指輪は、僕の手の中に二つ。 end. 題材曲:from Y to Y/OneRoom 原曲が好き過ぎるあまり、自分の小説が恥ずかしくて読みたくないです……。 |