節足動物とは昔から折り合いが悪く、好感を持った事など一度としてない。いけ好かないのだ。
 部屋の天井の隅に、蜘蛛が巣を造っていた。三センチほどの黒い蜘蛛だ。昨夜の就寝前には蜘蛛も、巣すらなかったから、寝ている最中にこの立派な巣を造り上げたのだろう。人間の領域にも関わらず、しゃあしゃあと巣の中心で自己顕示している。まるで、ここは俺のサンクチュアリだ、と言わんばかりに、じっと。
 骸は殺虫剤片手に蜘蛛のいる窓際の片隅へ忍び寄る。蜘蛛は微動だにせず、捕食の為に獲物を待っている。この部屋の本当の主が何を目論んでいるのか知る由もない。

「ねぇ」
 殺虫剤の噴射ボタンを押す直前、骸の動きを止めたのは蜘蛛と骸以外の第三者――雲雀だった。
 はだけた寝衣に身を包み、乱れた髪を整える事もなく、眠そうに目を擦っている。瞼は今にもくっ付きそうで、足取りも覚束ない。それでも誉めてやろう。今日は休日だと言うのに、珍しく雲雀は午前に起きてきたのだから。
 見てくれからして如何にも寝起きである雲雀は、少し遅いおはようを言った。そして部屋の隅にいる骸を見ては首を傾げた。
「何してるの」
「蜘蛛を退治しようとしてた所です」
「へぇ」
 雲雀は骸と蜘蛛の元へ近付く。視線は蜘蛛へと向かっている。その間、誰も何も喋らなかった。音すら立てなかった。
 暫く蜘蛛を見ていたが、やがて雲雀は骸の手から自然な動作で殺虫剤を取った。しかも、あまりにも違和感なく、驚くほどするりと抜き取ってみせたのだ。その為、直ぐには殺虫剤を取られたのだと気付けなかったくらいだ。
 雲雀は骸から奪った殺虫剤をわざとらしく見せて、蜘蛛退治に制止をかけた。
 欠伸をする雲雀の横で、雲雀には産まれながらに人を魅せる才能があると骸は確信した。滑らかで艶めかしい動作は、奇術師を髣髴とさせる。自分もその、艶麗とした奇術師に魅せられた内の一人だ。
「不条理だよ、殺すなんて」
「なるべく殺生はしたくないのですが」
「だったら尚更」
 雲雀はティッシュを一枚取り、骸に肩車を頼んだ。肩の上の雲雀は想像より軽く、簡単に持ち上がった。寝起きで力が入らないのか、ぐらぐらしている雲雀を落とさないよう、骸は努めた。
 雲雀は巣の中心にいる蜘蛛を優しくティッシュで包んだ。依然として一つ一つの動きが優雅で、思わず感嘆の声を上げてしまった。しかし雲雀は何も気付いていないようだった。骸の考えている事などお構いなしに、骸に降ろすよう言った。その後、窓からティッシュごと蜘蛛を放してやっていた。
「ごめんね」
 放す間際、そんな事も口にして。
 どうして蜘蛛なんかに、謝るのだろう。骸には不思議でならなかった。殺虫剤の出番はなく、雲雀は部屋を出る際、殺虫剤を持っていってしまった。それは遠回しに、もう殺すな、と自分に言っているのかもしれない。もう何も、殺すなと。

 その夜、骸は自室に雲雀を招いた。
 色恋沙汰に溺れる二人にとって、そうなるのは時間の問題であり、自然な流れだった。流れに逆らう事もなく、ゆっくり堕ちていった。
 その最中、骸に組み敷かれている雲雀が前触れもなく、情事特有のそれではない、あ、という声を漏らした。律動を止めても仰け反ったまま、一向に体勢を戻さない。
 仰け反ると露わになる雲雀の喉に、また魅せられていた。喉仏さえなければ女性の物と見紛うほど、繊細で美しい曲線美だった。未だ仰け反る雲雀の視線の先に、窓がある事に骸が気が付いたのは、雲雀が指を差してからだ。
「網戸、壊れてる」
 窓の下部、風が吹くと網戸がたわみ、ぽっかりと口を開けた。どうやら網と底辺部分が剥がれてしまっているようだ。どうしてこうなったか、検討も付かないが。
 薄明かりの下、雲雀は深く息を吸って、囁くように言う。
「きっと、彼処から入ってきたんだよ」
 蜘蛛の事を言っているのだろう。自分との行為を中断してまで蜘蛛の事を気にかける雲雀の態度、骸は解せなかった。
 雲雀は仰け反るのを止め、蜘蛛がいた天井の隅を見てから、骸を見た。不服そうな顔をすると、雲雀は顰蹙した。そんな顔をする理由が分からないようだった。
 再び事を始めると、いなくなった蜘蛛も壊れた網戸も、骸の頭からは消え去っていた。雲雀の方は、たまに天井の隅を見ていたように思えた。
「僕は少しだけ君が嫌いだけど、それより沢山、好きかもしれない」
 あの奇術師がこの時だけは全てを見せてくれる。それは同時に、タネも仕掛けもない奇術を、直に感じる事になる。
 雲雀の仕草一つで、自分はどうにかなってしまうのだ。その淫靡な顔で微笑まれたら、耐える事など不可能に等しかった。

 朝、骸が目を覚ましたら、また同じ場所に蜘蛛がいた。
 立派な一夜城が昨日と同じように完成している。その真ん中に陣取っているのは、これまた昨日と同じような、黒い蜘蛛。もしかしたら本当に同じ蜘蛛かもしれない。
「……また、ですか」
 隣で寝ている雲雀を起こさないよう、そっとベッドから降りる。
 殺虫剤を探すも、昨日雲雀が持っていってしまった事に気付き、雲雀の部屋に行った。

 雲雀の部屋はただ殺風景な骸の部屋とは違い、シックで纏まりがある。部屋の大半を黒が占めているが、家具の所々は白を基調としている。シンプルかつ、雲雀らしい綺麗な部屋だ。
 スプリング式のロールスクリーンから朝日が淡く漏れている。床に敷かれたチャコールグレーのシャギーラグが、歩く度に骸の足の裏をくすぐる。殺虫剤はテレビの向かいに置かれた、革張りのソファーの上に転がされていた。
 ――また蜘蛛を殺したら、雲雀は怒るだろうか。
 ひやりと冷たい殺虫剤の缶を持って、雲雀の部屋を出た。雲雀が起きる前に殺せばいいと思っている自分は、どこまで卑怯者だと骸は実感していた。自室のドアノブが重く感じたのは、どこか後ろめたい所があるからだろう。

 部屋の扉を引くと、間近に雲雀が立っていた。もし扉が骸側からは押し戸だったなら、顔面を強打していたであろうほど。反射的に殺虫剤を持っていた手を体の後ろに隠す。心臓がうるさく脈打っていたが、冷静な顔を保った。
「どいて下さい」
「だめ」
 確かに、いや、ではなく、だめ、と雲雀は言った。後ろ手に隠した殺虫剤も、雲雀は見抜いているようだった。
 両手を広げて入り口を塞ぐ雲雀は、骸を睨み付け、罵声にも近い声色で叫ぶ。
「だめったらだめなんだから」
「なんでそこまで執着するんですか」
 骸もつられて怒声で言い返す。雲雀は目を丸くしたかと思うと、俯いて押し黙ってしまった。長い前髪が雲雀の目元を覆い隠し、影を作った。それでも雲雀は、骸を通させまいとする。
 少し言い過ぎたのかも知れない。雲雀の懸命な態度を、自分は執拗と履き違えていた。それに、蜘蛛に対しても知らぬ間に嫉妬していたのかもしれない。
 謝ろうと改めて雲雀を見た瞬間、何かが音を立てて床に落ちた。
「……君に起こされて、寝不足なんだ」
 そういって雲雀は服の袖で目を擦っていた。生憎、床に落ちた物が水滴だとわからないほど、骸はバカではなかった。だが雲雀は泣いているのかと問われれば、断言はできない。俯き加減の表情、目元を覆っている髪の下にしか真相はないのだから。
 体と垂直に伸ばされた腕を掴んで引き寄せ、骸は雲雀を抱き締めた。突然の事に驚いたのか、雲雀は骸の腕の中で小さくなっていた。
「どこまで知ってるんですか」
「何が」
「大方、アルコバレーノ辺りに聞いたのでしょう?」
 白を切る雲雀に骸は具体的な名前を出してみせた。すると図星だったのか、雲雀は無言でいる。
「君がイタリアで、ファミリーの」
 言い終わる前に一層強く抱き締め、雲雀の顔を骸自身の胸に押し付けた。その際に手から殺虫剤が離れ、鈍い音を立てて落下した。
 話し始めるまでの間は雲雀なりの決意をしたのだろう。やはり聞かない方が良かった。話しを促したのは骸自身だったが、いざ話し出した雲雀の声は震え、とても聞いてはいられなかった。
 抱き締めたのは、それ以上話すなという無言の合図だった。しかし雲雀は、震えた声で再び話し始める。

「もし、君が誰かを殺めるために銃を撃つなら、僕はその誰かの盾になろう。君が誰かを殺めるために刃を翳すなら、僕はその知らない誰かの身代わりになったっていいさ。君が、誰かを殺めるために何かするなら、否応なく僕が犠牲になる」

 雲雀の発言に骸は呆気に取られ、言葉を発せなかった。雲雀は鼻で笑って続ける。
「だってそうしたら、骸は僕しか殺さなくて済むでしょ?」
 嘲笑は骸に向けられたものなのか、雲雀自身に向けられたものなのか、判別がつかなかった。
 雲雀は骸の腕から抜け出し、転がっていた殺虫剤を拾った。骸に背を向け、部屋の隅まで歩いていく。その隅は、蜘蛛が巣を張っている隅である。
 蜘蛛を眺めているのか、上を見ている雲雀。骸には雲雀の意図は分からず、その姿をただ見ていた。
「足か手かわからないけど、蜘蛛は八本も手があるんだ。でも君は二本しかない」
 意味深長なその言葉を吐いた直後、雲雀は蜘蛛めがけて殺虫剤の噴射ボタンを押していた。
 骸が止めようとした頃には既に、蜘蛛は巣の中心からいなくなっていた。雲雀は足元を、ただ見ている。その後、昨日と同じようにティッシュで足元の蜘蛛を包んで、外に放り投げていた。
「まだ綺麗な手だよ、君の手は。汚したらだめだからね」
 擦れ違った時に囁かれた言葉。
 だめ、という響きが頭の中に留まった。

 そして後日、起床すると全く同じ場所にまた蜘蛛が巣を造っていた。よく飽きないなと骸は思う。殺虫剤はといえば、雲雀の部屋のソファーで、埃をかぶったまま置かれている。これでいい、多分これが正しいのだ。根拠だってある。
 それは毎朝、遅いおはようを言いにくる度、雲雀が蜘蛛を見ては顔を綻ばせているからだ。

end.

じゃじゃーん、右下に蜘蛛さん登場ー。怖ぃぃいいい。
節足動物と折り合いが悪いのは私もです。