| その時僕は、確かに堕ちている。 瞬間的に抗うことも気恥ずかしさも忘れ、ただ満ちる。満ちた先には求めた快楽があり、それは全身を侵食していく。 快楽よりおぞましい物はない、やつはなんでも美味にする。背徳の味も、堕落の味も、凌辱の味ですら、簡単に飲み込んでいってしまう。そうなると、徐々に罪の意識は薄れ、今よりも更に相手を求めるようになる。そこからはもう、負の連鎖しか生まれない。気付かぬまま、いつの間にか共に溺れているのだ。 僕を高みへと誘った張本人である骸は、顔を覗き込んで笑みを浮かべている。 「最悪」 「よかったでしょう?」 骸は処理を済ませると、ベッドの縁に腰を下ろし、煙草をふかし始めた。腰まである長い髪は緩く結ばれているものの、情事後のせいか乱れている。 女と男でもあるまいし、鬱陶しい真似はしない。事が済めばお互い好き勝手自由に時間を過ごす。淡白だが、そのくらいがちょうどいい。声を枯らしてまで激しく求め合った後は、冷ます時間もまた必要だ。 ふと、ガラスに映った骸と目があった。骸は微かに笑って、振り返ると、僕の方に寄ってきて、隣に寝転んだ。 「たまにはこうして寄り添うのも、いいものですね」 確かにそうかも知れない。 手を伸ばし、背に腕を絡ませる。こんな大胆な事をするなんて自分でも珍しく思う。情事後特有の気だるさやら、かなぐり捨てたままの羞恥からだろう。 罪を犯してしまえば、後はどうとでもよくなるものだ。 「もう一回、したい」 そう漏らした時にはすでに、骸の手は僕の腰を優しく撫でていた。 しかしそのまま行うものかと思っていたら、どうやら考えがあるらしく、胡座をかいた骸の足の間に呼ばれた。向かい合わせで座ると、苦笑された後、抱きかかえられて反対向きにされた。 自分も男であるからあまりとやかく言えないが、微かに肌に触れる男の象徴が少しばかり不快感である。その上、不快感にいらいらを募らせて待っているというのに、一向に事に及ぼうとする気配はない。 膝を軽く折って、手で抱えていると、骸に後ろから閉じ込められる。 「ふてくされないで下さいよ」 「君がしてくれないから」 「おねだり上手になりましたね」 「そうさせたのは、君だろ」 骸が言い切らない内に、言葉を被せる。 「僕をこんな風にして、一体誰のせいだと思ってるの……」 か弱い声音、それはその声が自分のものだと認めたくないほどだった。 これでもかというほど焦らされた後のセックスは、なかなかよかった。その証拠に、朝起きると時計の針は十時を差しており、察するにかなり熟睡していたらしい。 節々の痛みを我慢して起き上がると、なにやら骸がめかし込んでいた。骸は僕を視界に入れると、心外だとばかりに目を丸くする。 「……起きたんですか」 「うん」 素っ気なく返事をし、またベッドに潜る。 骸はまた、あの女の元へ行くのだろう。それも恐らく、僕が起きる前に家を出るつもりだったに違いない。 上辺では寛大に振る舞いつつ、心のどこかであの女のところへ行かせまいと思っている自分がいるのを否定はしたりしない。しかし、理由をつけて毎日足蹴もなく通い、それで阻止したつもりでいた自分が今、あからさまに惨めである。どんなに指を閉じて隙間をなくそうとしても、隙あらばそこから逃げていく、骸は手ですくった水のようだ。 勝手に不機嫌になっていると、骸がぽつりと独り言を漏らした。 「ああ、移り香が」 すんすん鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ音が聞こえてくる。僕は香水やらコロンやらはつけない主義だから、きっとあの女の移り香だろう。 服に匂いが移るくらい、一緒にいるのか。羨望と嫉妬、醜く淀んだ感情が胸の中に渦巻いて、仕舞いにはひしめき合う。 口を開けたら皮肉を言ってしまいそうで、でもこれ以上嫌われるのは嫌で、言葉を選んでから口を開いた。そのせいか、少しばかり声がかすれてしまった。 「僕は気にしないよ」 しかし骸は峻拒した。 「違いますよ、逆です。シャツに君の移り香が……」 は? とらしくなくだらしない声を上げてしまいそうになった。思わず目を見開く。 君の移り香、つまり、僕の移り香? だが浮かれる間もなく、骸の携帯電話が着信を告げるメロディーを鳴らした。シーツの隙間から一連の動作を盗み見ていると、骸は緩慢な動きでそれを手に取り、折りたたみ式の携帯電話を開いていた。そのまま電話に出るのかと思いきや、予想に反し、液晶画面とにらめっこを始める。けたたましく響くメロディーは繰り返し再生され、やがて前触れもなく途切れた。 今からその女の元へ行くというのに、何故、電話に出なかったのだろう。 「ああもう、なんだか面倒になりました」 そう言うと、骸は携帯電話を真っ二つにへし折った。画面とキーの部分が離れ離れになり、接続部分は粉々になっていた。 僕はシーツをはねのけて飛び起き、声を上げるでもなく骸を見つめる。少し経ってから僕の視線に気が付いた骸は、僕を見て、柔和な笑顔を浮かべた。 「あの、裸なの、気付いてます?」 気付いていたら、こんな姿のままぼけっとしているわけがない。手遅れだとわかっているも、慌てつつシーツを引っ張り、体を隠した。 骸はそんな僕の隣に座り、腰を引き寄せた。 「折角ですから、もう一回しますか?」 白昼堂々盛るな、と言いたいが、よく考えれば盛るのも当たり前か。 「……所詮、僕は体だけ」 「ええそうです」 あっさり首肯される。否定しないところが骸らしい。 諦めの混じった息を吐き、骸の肩に頭を寄せる。セックスしてもいいの合図。しかし骸はそんな僕に軽いキスをしただけで、すぐに体勢を戻してしまった。 「けれど、そこから始まる恋があったって、いいじゃないですか」 ……そんなの、今更過ぎる。 恋、って、なに? 僕にはその言葉の意味も、定義も、境界線も、何一つわからないし、知らない。知りたいとも毛頭思わない。それに、知らない方がきっと幸せなのだろう。 僕は黙りこくっていた。 骸は嘘が上手だ。でもそう何度も嘘をつかれては、僕だって嫌でも見抜くのが上手くなる。 わかってる。その言葉が僕宛てではない事。もう一台別の携帯を持ってる事、骸はどうしようもない女たらしで、僕はそんな骸を愛している事。それから、僕は骸にとって都合のいい性欲処理道具以外の何物でもないという事。 やっぱり恋なんて、知らない方がいい。 骸は僕が大嫌いだけど、性欲処理道具として使っている。僕も骸が大嫌いだけど、同時に愛してもいる。 よくある話。こんな関係を引きずっててもいい事なんて何もない。でも関係を断ち切ってしまう、それはつまり、骸とはもう関われないという事になる。それは嫌だ。 しかしその嫌な理由が、骸を愛しているから、とは断言できない。 確かに愛してはいるけれど、それよりも骸とセックスがしたいという気持ちの方が強い。結局僕も、骸の事を性欲処理道具、という目でしか見ていないのだろうか。わからないまま、今し方、今夜の予定を取り付けてしまった。 「僕もバカだな……」 僕は骸の浮気相手、兼セックスフレンド。いや、ただのセックスフレンドかもしれない。むしろダッチワイフか、オナホール以下か。エネマグラはちょっと違う。 せめて僕を、人として見て欲しい。表面上、人として扱うのではなく、腹の底から僕を人として認識して欲しい。そう思うのはきっとおこがましい事ではなく、至極当たり前の事だと思いたい。 302号室で愛しの君を待つ。 冷えたガラスに手を付いて、ホテルの外を眺める。星が見えない都会の空に、月が独りきりで浮かび上がっている。時折灰色の雲が被さって、月光が柔らかく滲む。街はそんな空の光に頼りもせず、華やかなライトで着飾っている。喧騒ある所に人は必然、人ある所にもまた、光が必然。案外、月光だけでも十分なのに、行き交う人はそれを知らないのだろう。必要以上の光を灯し、夜の醍醐味を奪っていく。 人の群れに吐き気を覚え、カーテンを閉める。 僕は都会の月でいい。雲は僕を隠す事はできないし、群れは僕を必要としない。僕も群れを必要としないし、高みの見物で冷ややかに下界を見ては楽しんでいる。星のない空に浮かぶ、そんな独りぼっちの月がいい。 そして一人だけ、一人だけでも僕の必要性に気付いてくれたなら、もっといい。その瞬間、僕の存在意義はそのたった一人の為になる。有り得ないがその一人が骸だとしたら、もう死んだって構わない。 たった一人にあてられた小さな深い渇望が僕の胸を締め付ける。痛い、胸のあたりが凄く苦しい。寄りによって道具を愛してしまった、道具が愛してしまった。 心臓をかきむしるようにして膝をつく。乱れた呼吸、酸素が足りない。窒息寸前で酸素を求めて喘ぐ声に、扉をノックする音が混じった。夢中で骸の名前を呼ぶ。 絞り出した声が届いたのか、扉が勢い良く開き、骸が駆け込んできた。僕を抱き留めた骸に縋りつき、声を出そうと躍起になる。 「恭弥」 伝えなくてもどういう状況であるかは見て取れたらしい。 「……袋、なにか袋は……」 しかし僕が骸のロングコートを強く握り締めているせいで、骸は動けない。 このまま死んでもいいから、離したくない。今はそばにいて欲しい。どうせなら骸のそばで死にたい。そんな僕の思いは露知らず、骸は困惑の色を浮かべる。 しかししばらく(僕がそう感じただけで、実際にはそんなに時間は経っていないが)背中を行き来していた手が僕の鼻をつまんだ時、今度は僕が困惑する番になった。 骸の射抜くような目にゆっくり瞼がかかり、そして完全に隠れた時、喘ぐ僕の唇は骸の唇によって塞がれた。鼻はつままれ、半開きの口も塞がれ、どうにも息が出来なくなる。逃げようにも、体をくねらせると余計に骸の腕が体に絡み付く。 本能的に骸の吐き出す息を必死で吸うと、気の所為か楽になっていくような気がした。そして今に気が付く、気の所為ではないという事。乱れた呼吸が骸の息によって正されていく。 呼吸がほぼ正常に戻ると、骸の濡れた舌が侵入してきた。僕もそれに応じて、舌を絡ませると、更にエスカレートしていき、また苦しくなってきた。苦しいんじゃない、気持ちが良くて喘いでしまう。 やがて長いキスも終わり、名残惜しそうに唇は離れていった。途端、骸は僕を抱きしめた。 「よかった……恭弥が死んでしまうんじゃないかと思いました」 鼓膜を震わす鼓動が、心地いい。骸の胸元に頬を擦り寄せると、骸は僕を宥めるように背中を数回、優しく叩く。 「聞いて下さい。今日僕は恋をしたんです」 誰に、なんて自分からは聞けなかった。 「僕が道具としてしか見ていないと知った時、目の前で首を吊った人もいました。腹いせに腹上死、なんて女もいました。でも目の前で人が死んでも、僕はなんとも思わなかったんです。だって道具だから。壊れたらまた次を探せばいいとしか、思わなかったんです。 でも君が過呼吸で苦しんでいる姿を見て、嘘偽りなく、いや、そんな事を考える暇もないほどに、助けたいと思いました。死なないとは分かっていたんですがね……」 別れ話かと覚悟したら一転、とんでもない言葉を聞いた。 「好きなんです、君が。迂回を重ねてようやく今、気付いたんです」 「……やめて」 僕は静かに首を振る。 「愛してるなんてそんな綺麗なものじゃないんです。ごめんなさい、僕が勝手に、独りよがりに好いているだけなんです」 また気管のあたりがきゅう、と締め付けられる。鼻がツンとして、目頭が熱く、熱を持ち始める。 痛い。骸の言葉の端々から感じ取れる「本音」が胸に突き刺さる。僕を道具として見ていない、一人の対等な人間として、見ていてくれる。その視線と僕の視線が交わるのが何故だか嫌で、俯いた。 あんなにも愛されたかった僕の口から知らず知らずに漏れた言葉は。 「君に好かれるのが……怖い」 酷く弱々しいものだった。 ああそうだ、僕は月だ。空から引きずり下ろされた、惨めな月だ。 嘘つきで、どうしようもない女たらしで、それでも僕を愛してくれる人。その人から貰った愛で、下界に沈み、自らも地上に降りる事を願った、哀れな月なんだ。 これからもっと深い場所へ沈んでいくのだろう。骸の鼓動を聞きながら目を閉じ、深呼吸をした。 僕を落としたのなら、最期まで面倒を見てもらうことにしよう。 end. 元無料配布予定。別名没。 |