| 空が、泣く。 雨は空の涙だと、どこかで聞いたような気がした。憂いを帯びたような涙はしとしと下界を濡らしていたが、やがてざぁざぁと大きな粒が間を置く事無く降り続いた。それはまるで、堪えていた涙が溢れるかのようだった。 「どうしてそんなに泣いているんですか」 骸の問い掛けに答えは返って来ない。拭う事もせず、ただ涙は重力に従って下へと落ちていく。雨宿りの為に入った喫茶店内には、長閑なバックグラウンドミュージックが延々と流れていた。カウンター席に腰を落ち着けた二人の髪からは、ひっきりなしに水滴が落ちていくが、どちらも拭く気は無いようだ。店主が差し出したタオルが手付かずのまま傍に置かれていた。 呼吸をする事にまで気を使ってしまうような空気の中、どれだけ時間が経っただろう。りん、と澄んだ音に振り向けば、喫茶店のドアが開かれ、一組のカップルが入ってきた。その二人もまた、同じように雨に濡れていた。違うのは、女の方はハンカチで雨に濡れた男を拭いてやり、男は濡れた服で体が冷えないよう女にジャケットを羽織らせていた事だ。 男は店主にホットコーヒーを二人分頼むと、骸が座るカウンター席から一番離れたテーブル席に座った。まるで対照的だった。弾む会話、楽しそうな声。反対に、骸の問い掛けに未だ返事はなかった。窓から見える空からも、隣にいる雲雀からも。 ドリップしたコーヒーを店主がカップルの元へ運んで行く。店内の時計が鳥の声で三時を告げた。それは同時に三時間もの間、店にいた事も告げていた。 雲雀に、と頼んだコーヒーの代金を置き、立ち上がる。立ち去ろうとすると、服の裾が強く引っ張られた。足を止めそこを見れば、雲雀の震えている手が服の裾を掴んでいた。顔は俯いていて、見えない。 「最後に一つ、いい?」 「どうぞ何なりと」 雲雀が店に来て初めて、顔を上げた。泣き腫らした目は赤く充血している。泣きすぎた所為で頬は赤く染まっている。雲雀のこんな姿を骸が見たのは、初めてだった。同時に、雲雀がこんな姿を骸に見せたのも、初めてだった。 涙か雨で濡れた髪が、額や頬に張り付いている。直そうと手を伸ばすと、触れるより先に手を振り払われた。目の前の雲雀に触れる資格すら、最早無いのか。 「骸、誕生日おめでとう」 そう一言告げ、雲雀は手を離した。 再びりん、と出入り口のドアに付いたベルの音が鳴り、雨の匂いが鼻を掠めた。扉が閉まると、もう店内の音は聞こえない。カップルの笑い声、くぐもった雨の打ち付ける音、店内のバックグラウンドミュージック、店主が煎れるコーヒーの音、雲雀が漏らす嗚咽。それが無かったかのように消え去って、代わりに聞こえるのは、空が泣く音だけ。 空が、鳴く音だけ。 それから実に十年もの歳月が経った。外見的にも内面的にもお互い成長した。もうあの日のようなアヤマチは犯さないと、骸も思っていた。そして雲雀もそう思っている事を、骸もわかっていた。 夕食後、骸の足は迷う事なくあの場所へと向かっていた。自室よりも長く、一日の大半を過ごしている場所へ。 襖を開け、何時も通りにたわいない挨拶を交わす。 「こんばんは」 「また来たのかい。君も飽きないね」 「お互い様でしょう」 雲雀の隣に鎮座し、取り留めのない話題を提供する。 「今夜は雨が降るんですって」 「もうすっかり梅雨だよ」 「湿気が多くて嫌になります」 「君、湿気なんて気にするんだ」 「失礼ですね。僕だって人間ですよ」 骸の視線の先は、開け放たれた障子から見える庭園に向いていた。立ち上がり、縁側まで歩いていくと、庭園には季節外れな桜が華々しく咲き誇っていた。あまりに優美なその姿、それに見とれていたのだ。 「ああ、ここは人口庭園でしたっけ」 「そう。残念だけど、雨は見られないよ」 「通りで桜が咲いている訳だ」 桜。鮮明に蘇る十年前の記憶。敵同士だったあの頃、目に映った桜の幻覚は華々しくもどこか狂気じみていた。 桜に見とれていると、雲雀も立ち上がり、骸の隣に並ぶ。綺麗でしょ。そう言って自慢気に笑う雲雀の言葉が耳に入り、骸は無意識に言葉を発していた。 「……懐かしいですね」 たったそれだけだったが、十年前の事を思い出させるには充分過ぎた。 雲雀は押し黙ってしまった。あれから二人は、過去の関係に通ずる話を避け続けていた。それが既に暗黙の了解と化していたのだから、今更口にして押し黙るのは当然だろう。 あの日と同じアヤマチは犯さない。そのアヤマチとは、酷い別れ方の事なのか、それとも同性ながら愛情を寄せ合ってしまった事なのか。分からない。少なくとも骸は前者であって欲しいと思っていた。 重苦しい空気に耐えかねて、話題を変えてみるも、雲雀からの返事は途絶えたままだった。 「そろそろお暇します」 長い間の後、苦渋の表情で骸は告げ、雲雀に背を向けた。その際、雲雀が骸を一瞥したが、骸はその視線からも逃げるように足早に歩いた。 「逃げないでよ」 半ば叫ぶように言われ、思わず足を止める。畳と布が擦れる音がし、雲雀が近付いてくるのが音で分かった。 振り向くと、雲雀は両腕に五本ずつ、計十本の傘を骸に差し出した。有無を言わせぬ表情。仕方なくそれを受け取る。というよりは、雲雀の腕から骸の腕に傘を移しただけだった。 「これ、新品じゃないですか」 「いいから」 こんなに沢山の傘を無理やり手渡され、戸惑う以外にどんな反応をすれば良いのだろう。よく見ると、十本の傘の柄全てに何かタグのような物が付いている。 「十年間も、渡せなかったんだ」 その言葉の意味は、タグに書いてある文字と雲雀の囁きで理解できた。骸、誕生日おめでとう。耳元で囁かれる言葉と、タグに書かれたイタリア語の文字。十年振りに聞いた言葉に、懐かしさが込み上げる。 そのまま立ち竦んでいると、用は済んだとばかりに身を翻す雲雀。その服の袖を骸が掴んだ。 「雲雀くん、忘れ物です」 振り向いた雲雀の唇に、一つキスを落とす。刹那の感触。唇が離れると、雲雀は驚きを露わにした表情で、自分の唇を繰り返し指でなぞっていた。十年前は頬を赤く染めていたのに、今の雲雀は狼狽えたように視線を泳がせていた。 傘が腕から滑り落ちる。短くなった前髪を撫でようと手を伸ばすと、触れるより先に手を振り払われた。 「なんで、」 僕は単純だから、勘違いするよ。 「そんな事、言ったら」 僕の方こそ、勘違いしてしまいます。 雲雀の腕を引っ張った。骸の腕の中へ雲雀を閉じ込めた。泣きそうな顔だった。雲雀は今にも泣きそうな顔をしていた。 どうしてそんなに泣きそうな顔をするんですか。問うと今度はちゃんと返事が返ってきた。シアワセだからだよ。シアワセってなんですか。今日の雲雀はお喋りだ。忘れた物を、取りに行けた事じゃないかな。 額、こめかみ、頬、唇、と順番に唇で触れる。鎖骨、項、肩、露わになる白い肌に理解は働きそうになかった。このまま情欲に任せても構わないような気がした。 アヤマチとは何だったのだろう。愛情を寄せたまま、傍を離れた事だったのだろうか。愛情を寄せる事自体がアヤマチだったのか。例えそれがアヤマチだろうが、アヤマチで無かろうが、空は泣いただろう。 ここは確か地下だった。見える庭園は作り物だった。それでも骸の耳には、雨が泣く音が届いた。雲雀の泣く音の中に、確かに空が泣く音が聞こえたのだ。 ああ空が泣く。どうして泣いているのかと聞いても尚、シアワセだからと答え、泣き続けている。 end. 骸さんハッピーバースディ企画に提出させて頂いた作品です。 タイトルは川上弘美さんの「溺レる」を意識してます。 |