殺してしまいたかった。でも出来なかった。無防備に晒された喉にフォークの切っ先が触れる寸前、僕の腕は石になった。どんなに力を込めても、殺してやると強く念じても、それ以上の進展はなかった。
 寝ている内なら殺せたのに。フォークを床に投げ捨てて、骸の長い髪を引っ張る。フォークが落ちた物音にも、髪を引っ張られる痛みにも動じず、起きない。中途半端にはだけたコートに手をかけ、脱がせようとすると、何か黒い塊が転がり落ちてきた。ブラインドから差し込む月明かりを反射して煌めくそれは、一丁のリボルバー。
 
「だめですよ」
 
 引き金に白い指が絡みつき、銃口は骸に跨る僕の胸に当てられた。
 僕と骸は付き合っているらしい。五年前、骸に聞いたらそうだと言ったから間違いない。ふらふら骸に着いていって、一緒にご飯を食べて、セックスして、喘ぎ疲れて寝て、起きたら骸はいたりいなかったりして。七年前からそれを繰り返して、二年経って恋人になっても飽きずに繰り返して、結局その流れが崩れることはなかった。
 恋人になって何か変わったのだろうか。いや、なに一つ変わっていない。おかげで愛してると言い合ったりはするものの、恋人同士だという実感は湧いてこないまま。それもこれも、恋人に昇格する前と後で、全くする事が変わっていなかったせいだ。
 
「バレンタインに君から死をもらっても、嬉しくないですねぇ」
「君なんかに何もあげない」
 
 逃げる間もなく腕を強く引かれた。骸の腕の中へ閉じ込められ、襟首に噛みつかれる。
 骸は僕に加減なんてしない。だから血だって出るし、傷も残る。それでいい。加減なんてされたらもっと欲しくなる。体が疼いてたまらなくなる。
 
「全く君は、本当に可愛いですね……」
「っやだ」
 
 そう言って興奮しているのは僕の方。僕の全部を見透かしている骸がもちろん止めてくれるはずもなく、気付けば押し倒されて、体中を弄られていた。銃もまた床に落ちて、重低音を立てた。
 いつかのバレンタインに渡したチョコレートの香水は、今となっては骸の匂いになっている。深く吸い込むと、酔ってしまいそうになった。
 
「もう別れたのに」
 
 別れを告げたのは一時間前の昨日、しかし断ち切れないこの関係。
 これがイケナイコトだというのは七年前から十二分にわかっている。しかし理解すれば理解するほど、はまっていく。もがけばもがくほど沈んでいく底なし沼のように、ずるずる続けてもう七年が経った。確かに長いはずなのに、短かく感じるのはなぜだろう。
 
 
 
 朝起きて、お風呂に入って、骸が作ったご飯を食べて、そしてようやく自室に戻ってきた。また同じ流れを繰り返してはいるものの、僕達はもう、恋人同士ではない。別れを告げた日、確かに骸は同意した。いずれこの連鎖も終わる。僕達はもう子供じゃないんだから、いくら好きでも執着はしない。骸が僕に構いさえしなければ、時間が解決してくれるだろう。
 ふと庭園に目がいき、近寄って見てみた。鹿威しは規則的に動き、水面に僕の姿が映った。屈み込んでよく見ると、首筋から胸元にかけて点々と赤い後が残っていた。
 いつしか恥じらいというものを忘れた。初めは見つめられる事さえ恥ずかしかったのに、次第に自分から誘うようになって、進んで足を開いて、口でしたり、ご奉仕するだけの奴隷にもなった。そうさせたのは紛れもない、骸だ。
 はだけた襟を正し、室内に戻る。する事と言えば何もない。仕事は皆片付けてしまったし、骸の所へ行く理由はなくなってしまった。僕はまた、ひとりぼっちに戻った、それだけの事だ。
 
 
 
 物音一つ立てず、いつしかそこにいる。骸はいつだってそうだ。僕の中に侵入してきた時も、今も。
 今夜ははだれゆきがちらちら舞っている。学校の屋上から見渡す景色に、白が乗せられる。静かに降り積もるそれの刹那的美しさに見せられ、思わず掴もうとした時だ、骸に声をかけられたのは。
 
「クフフ……君に会いたくなってしまいました」
「嘘、やめてよ」
 
 目を開けて骸を見る。
 雪をバックに佇む骸は、一際綺麗だった。長い髪が風に揺られ、はらりと靡く。
 
「本心なんか口にした事ないでしょ?」
 
 骸は知ってる。僕は知らない。
 僕の気持ちなんて初めから全部見透かされていたが、僕は骸の気持ちを何も知らない。出会ってから十年経って、七年間も傍にいて、五年間も恋人だったのに、何にも知らない。だって骸が、教えてくれないから。僕に知ろうとさせてくれないから。
 僕は一度も、骸の瞳の奥を覗いた事がない。憎い、泣きたくなるほど愛しているのに、それ以上に憎悪が湧き上がる。昨日もそれが募って、別れたのだからと、殺そうと思った。しかし好きなのだ、この男が。愛憎という言葉があるくらいだから、多分僕がおかしいわけではない。
 
「……変わりましたね、君」
 
 苦笑する骸を見て、また憎くなった。
 肌に触れた雪は熱に犯されて消え行くのみ。
 
「変わった?」
「ええ、随分変わりましたよ」
 
 ただ同じ事を繰り返していた七年間、何が変わったというんだ。
 思い返してみる。確かに恥じらいは捨てた。確かに愛は増えた。イコール憎しみも増えたし、気も使わなくなった。嫌みも多くなった、乱暴に扱われる事も多くなった、無垢に愛する事を忘れた、笑顔なんて消えた、涙も流さなくなった、たわいない話など嫌悪を抱くまでになった、記念日にわくわくする事もなくなったし、プレゼントなんてもってのほかで、デートもしなくなった、会えばセックスしてさよなら、キスするより先に交わる事もしばしば、終わればもういないような扱いをして、自由気ままに振る舞って――。
 指折り数えて、すぐに両手じゃ足りなくなって、それでもまだ足りなくて。おかしい、いつから間違えたんだろう。単純作業の日常の、どこで足を踏み外したんだろう。冷えた指先が震え始める。
 今の僕達はおかしい。どの角度からどう見てもおかしい。気狂い、淫乱、変人、狂気の沙汰。ただ愛していただけなのに、愛したかっただけなのに、いつからこうなった? いつから殺したいほど好きになった? イケナイコトに対して罪悪感を感じなくなったのはいつだ?
 イケナイコトをイケナイコトと認識していた時がマトモだった時。イケナイコトを気持ち良いと感じた時から異常になった。境目はわからない。ただ罪の味は、一度味わったら病み付きになる。
 
「ねぇ恭弥、さようなら」
 
 本当のさようなら、だ。僕があえて残した逃げ道は、骸に断たれた。これが正しい選択。もうやり直しのできない七年間、イケナイとわかっていて引きずった七年間、さようなら。
 最後まで何も僕に教えないまま、骸は去っていった。いつしか僕があげた香水の、チョコレートの香りだけを残して。
 はだれゆきは、今も舞う。
 
end.
 
題材曲:瞳の奥をのぞかせて/ポルノグラフィティ
一日遅れのアンハッピーバレンタイン!
タイトルはことわざ「在りての厭い、亡くての偲び」を少しばかり変更して使ってます。
※「1925」以降試験的にレイアウトを変えています。